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2007.02.28|マスコミ

日本の親子100人

岡田卓也 岡田克也

起業の父との二人暮らし

岡田克也(衆議院議員)

イトーヨーカ堂と並んで、日本の二大流通グループの一角を築いた「イオン」グループの創業者・岡田卓也氏。その姿を、次男で民主党代表を務めた代議士・岡田克也氏が語る。

最も古い父の記憶は、私にとってあまり名誉なものではない。

幼稚園の実質的な初登園日だった昭和三十四年四月某日のことだ。当時、父は職場まで二十分近くかけて徒歩で通っていた。たまたま自宅との中間に幼稚園が あったので、父が通勤がてら、手をひいて私を連れて行ってくれた。幼稚園の前まで歩いてきて、いざ一人で幼稚園に入るとなって、私は急に不安になり、大泣 きした。その時、父がどんな表情だったのか……そこまでは憶えていない。

生家は二百年の歴史を持つ「岡田屋」。呉服 商を中心とした三重県四日市の小売業だった。父がその七代目社長に就いたのは、昭和二十一年のこと。まだ早稲田大学在学中の二十一歳。戦後の混乱期、配給 切符の時代だった。地方都市の中小企業の経営者だったので、自分で何から何までやらなければならなかったし、地元の商工会議所の副会頭などを務めていた時 期もあった。

それだけに、父が休みを取っている姿を家庭では滅多に見かけなかった。時折キャッチボールをしたり、市 内に一軒しかなかった中華料理屋に食事に出たり、年に一度、両親と三人兄弟で旅行に行くことくらいが楽しみだった。早朝から深夜まで働き、不在がちの父 は、何となく怖い存在だった。

そんな父との関係で濃密な時間を過ごしたのが、昭和四十四年の一年間。地方の量販店に すぎなかった岡田屋が、他の小売会社と合併して「ジャスコ」を設立することを発表し、その基盤固めに追われた一年である。父は拠点を四日市から大阪に移し て、ナショナルチェーンの実現を目指すことになる。当時、関西ではダイエーが圧倒的に強かった。

そのため、住まいも大阪に転居することになるのだが、三人兄弟のうち、私だけが一足早く一緒に大阪へ引っ越したのである。私は中学三年で高校受験の年だった。それまでは四日市高校に進学するつもりだったが、自分で大阪の高校に行くことを決断した。

父と二人きりの生活は2DKの賃貸マンション暮らし。それまでの四日市の自宅とは比べるまでもなく狭い。同居人は一人だけ。自ずと、父の一挙一動が分かる。

父とは二人で簡単な食卓を囲むことも多かった。仕事の話も聞かされた。「組合が二つできそうだ……」。時には、聞くともなしに、電話口の父の会話が耳に 入ってくることもあった。大きなリスクをとりながら、実質的な起業という難局に挑もうとしていることは肌身で感じられた。

四十代半ばだったこの一年が、父の生涯において最大の勝負時だったことは間違いないだろう。ライバルもなく、無借金経営の四日市時代とは全く違った環境 だった。その後、合併を何とか成功させ、株式上場を果たし、激しい競争の中で事業を成長させていった父を思うと、この一年は経営者として大きく脱皮した時 期だったのではなかったか。

そして、その時間の一部を多感な時期に共有できたことは私自身の財産にもなっている。リ スクをとって決断することの大切さを学んだのもこの一年だろう。岡田家の家訓に「大黒柱に車をつけよ」という言葉がある。時代の変化には機敏に反応せよ、 という意味だと私は解釈しているが、父は時代や消費者の変化にとても敏感だった。いや、いまでも柔軟な発想に驚かされることがある。この点は大いに学ばな ければならない。

経営者が己の利益追求を優先するようになると、企業は危機に瀕する。それは政治も同様であって、政 治家が己の利益を優先するようでは、国民の利益がないがしろにされる。国民の立場に立った政治の実現、政権交代ある政治を目指して、ブレることなく頑張っ てこられたのは、一貫して消費者の利益の実現を目指してきた父の姿勢に影響されてのことかもしれない。

父に学ぶこと は多かったが、一方で若い頃は「親父と同じような人生じゃ面白くない」と思ってきた。その結果、私自身の進路を巡っては、大学進学、就職、政界への転身、 いずれの局面でも意見は一致しなかった。祖父、父、兄が進んだ早稲田は受験せず、「民間に」という声に反して、公の仕事に就きたくて通産省を選んだ。選挙 に出ようとしたときも、「違う道があるんじゃないか」と言われたが、勝手に地元回りを始めた。

父も仕事上、政治家や官僚との接点は少なからずあったが、決して好きではなかったようだ。小売業を営むには、百貨店法や大店法など、つねに法規制との格闘があった。父は小売業者としての誇りを持って権力と戦ってきたと思う。

いま八十歳を超えて、国内のみならず中国やケニアに植林をし、カンボジアやラオスに学校を建設することを生き甲斐としている父を見ると、つくづくいい人生 を送っていると思う。私も世界の貧困問題や地球環境問題に関心が高まってきた。結局、最後は「同じような人生」を歩むことになるのだろうか。




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