沖縄密約開示訴訟-妥当な判決も原告の基本的な思想に賛同
沖縄返還交渉にあたって密約があり、この密約は、外務省で私が調査を命じた4つの問題ではなくて、交渉にあたって一定の負担を日本国政府が行うという別の密約もあるということに関して、訴訟が行われています。
元毎日新聞西山さんや、著名な文化人の皆さんが中心になって訴訟をされていますが、第1審で外務省及び財務省に対して、「文書があるはずだからそれを開示しろ」という判決が出ました。私が外務大臣のときです。
そして、このたび東京高裁で、「しっかりと調べた後だから、その文書がないということは認められる。もちろん、以前は文書があったということ、そして、それをどこかで廃棄していた可能性が高いとしながらも現在は文書がない。従って、公開はできないことに相応の理由がある」という趣旨の判決がでました。私はきわめて妥当な判決だと思います。
前回の東京地裁の判決は、非常に雑といいますか、私が外務大臣に就任して以来、徹底的に調査を命じて、そして大量の職員を動員し、あるいは私自身も局長やあるいは局長経験者、次官経験者も含めて直接ヒアリングをして、ある資料は全部出していたにもかかわらず出てこなかったものですから、それについて、「あるはずだから開示しろ」と言われても、「それはできない」と思っておりました。ですから、東京地裁の判決は、そういった政権交代後の努力について全く言及しない、そういう意味では不十分な判決だと思ってきました。
政権交代後に外務大臣の命令をうけて専門の調査チームを立ち上げ、徹底した探索を行い、外部有識者による委員会の検証も行った。外務大臣を委員長に学者を交えた外交文書の欠落問題に対する調査委員会を設置して、先程言ったように関係者から聴取を行ったが、発見されなかった。他方で、外務省はこれ以上文書を隠さなければならない理由はない。事実関係については認めているので、いま文書はないということの信用性は高い。今回の高裁判決は、そういう判決を下したわけです。
但し、「以前の話であるが、どこかで文書を秘密裏に廃棄したか、もしくは、外務省の保管から外したという可能性は否定できない」と指摘をしています。
そこのところについて、それは故意であったかそうではなかったかは分かりませんが、しかし、文書の管理は雑で、どこかで処分していた可能性は十分に考えられるので、そこについては深刻な反省が必要だと思います。
外務省の文書の場合には公文書ではなく私的にサインしたものなので、そういう意味で、どこかでそれがまさしく私的に廃棄されてしまったという可能性もあるわけです。従って、この判決がいうようなことは、当然想定できると思います。
いずれにしても、後世、こういう判断や決断をしたということについて検証できるように文書を残し、その文書を30年経てば公開していくことは、外交に対する国民の理解を求める上でも大変重要なことです。
そして、そもそもこういうことを、局長が私的にイニシャルだけサインするというような不透明なやり方ではなくて、組織として、そういうものを認めるか認めないか、きちんと組織としての決定を行い、決裁をとり文書を残すという当たり前のことが行われていなかったということは、大きな反省を迫るものだと思っています。
そういう観点から言うと、この訴訟の原告の皆さんの考え方、つまりその基本になっている思想というものは、私は全く賛同できるものです。この裁判における意見の違いというものはありますが、まさしく情報公開の必要性という観点では、意見を一致させることができるというか、私としては、趣旨は非常に理解できるものです。
いずれにしても、ここで1つの判決が出たことが一区切りだと思います。外務省については、しっかり反省をしつつ、これからまだ公開されていない30年経った2万点余の資料があるので、そういうものをスピードアップして、しっかり公開していってもらいたいと思います。
予算委員会で主張したように、私はこの問題にはこれからもこだわって、しっかりとフォローしていきたいと思っています。
※ブログの動画版はこちら
前回の東京地裁の判決は、非常に雑といいますか、私が外務大臣に就任して以来、徹底的に調査を命じて、そして大量の職員を動員し、あるいは私自身も局長やあるいは局長経験者、次官経験者も含めて直接ヒアリングをして、ある資料は全部出していたにもかかわらず出てこなかったものですから、それについて、「あるはずだから開示しろ」と言われても、「それはできない」と思っておりました。ですから、東京地裁の判決は、そういった政権交代後の努力について全く言及しない、そういう意味では不十分な判決だと思ってきました。
政権交代後に外務大臣の命令をうけて専門の調査チームを立ち上げ、徹底した探索を行い、外部有識者による委員会の検証も行った。外務大臣を委員長に学者を交えた外交文書の欠落問題に対する調査委員会を設置して、先程言ったように関係者から聴取を行ったが、発見されなかった。他方で、外務省はこれ以上文書を隠さなければならない理由はない。事実関係については認めているので、いま文書はないということの信用性は高い。今回の高裁判決は、そういう判決を下したわけです。
但し、「以前の話であるが、どこかで文書を秘密裏に廃棄したか、もしくは、外務省の保管から外したという可能性は否定できない」と指摘をしています。
そこのところについて、それは故意であったかそうではなかったかは分かりませんが、しかし、文書の管理は雑で、どこかで処分していた可能性は十分に考えられるので、そこについては深刻な反省が必要だと思います。
外務省の文書の場合には公文書ではなく私的にサインしたものなので、そういう意味で、どこかでそれがまさしく私的に廃棄されてしまったという可能性もあるわけです。従って、この判決がいうようなことは、当然想定できると思います。
いずれにしても、後世、こういう判断や決断をしたということについて検証できるように文書を残し、その文書を30年経てば公開していくことは、外交に対する国民の理解を求める上でも大変重要なことです。
そして、そもそもこういうことを、局長が私的にイニシャルだけサインするというような不透明なやり方ではなくて、組織として、そういうものを認めるか認めないか、きちんと組織としての決定を行い、決裁をとり文書を残すという当たり前のことが行われていなかったということは、大きな反省を迫るものだと思っています。
そういう観点から言うと、この訴訟の原告の皆さんの考え方、つまりその基本になっている思想というものは、私は全く賛同できるものです。この裁判における意見の違いというものはありますが、まさしく情報公開の必要性という観点では、意見を一致させることができるというか、私としては、趣旨は非常に理解できるものです。
いずれにしても、ここで1つの判決が出たことが一区切りだと思います。外務省については、しっかり反省をしつつ、これからまだ公開されていない30年経った2万点余の資料があるので、そういうものをスピードアップして、しっかり公開していってもらいたいと思います。
予算委員会で主張したように、私はこの問題にはこれからもこだわって、しっかりとフォローしていきたいと思っています。
※ブログの動画版はこちら
コメントを返す