米国人元捕虜の方々との交流会─地元四日市で収容されていた方も
先日、アメリカの元日本軍捕虜の皆さんとの交流会に出席しました。
この日本軍によって捕虜になった人たちとの交流会は、いろんな国の元捕虜の皆さんと日本政府との間で行われているもの、つまり、日本にお呼びして交流するというものですが、実は一番遅れていたのがアメリカの捕虜の皆さんとの交流会でした。
私が外務大臣の時に予算を初めて確保して、2010年に外務大臣として第1回の捕虜の皆さんをお迎えしたという経緯があるものです。
その時私は、そういった交流会の実施が遅れたことをお詫びし、そして何よりも、戦争中、大変厳しい状況に置かれた方々が多かったので、日本軍の非人道的な扱いについて、政府を代表して、外務大臣としてお詫びを申し上げました。
そして、毎年この交流会は引き続き行われています。今年は7名の元捕虜の皆さんが、息子さんや奥さんと連れ立ってお見えになりました。皆さん90歳を超えた方々ばかりで、最高齢は98歳です。
皆さんとお話をしていると、やはり長い年月の中で日本と米国の関係が信頼関係に基づき、非常に良い関係が築かれてきたことを喜んでおられる、そこは共通していました。
同時に、戦争中も大変辛い思いをされた方が多いわけですが、それはそれとして、しかし長い年月が経ったなかで、そういったことに対する批判とか憎しみというものを乗り越えて、日本とアメリカの関係のために自分も貢献したい、そういったことを述べられる方が多かったのが非常に印象的でした。
実はその中でスタークさんという92歳の方がおられて、スタークさんは捕虜として四日市におられたということが分かりました。今の石原産業の敷地の中にあった収容所に収容され、強制労働のような形で仕事をしていた。
具体的に何をしていたのかと聞きますと、当時石原産業に銅の精錬工場があったということで、その荷物運びや、あるいは、当時日本で集められたお寺の鐘を溶かす作業、そういったことをやっておられたということでした。
今回のこの日本への旅の中で、四日市にも足を延ばされるということでした。そのスタークさんから捕虜の間、とても優しくしてくれた、世話になった中原さんという方を捜すことができないか、という依頼もいただきました。
少しあたってみたのですが、スタークさんが持っていた中原さんからの英語の手紙、これは1950年のもので、住所も書いてあり、四日市の末広町というところですが、今はそういった民家はもう建っていないということで、残念ながらこの中原さん、あるいはその御子孫を捜し当てることはできませんでした。
しかし、捕虜の時代、非常に厳しい中で、しかも多くの仲間も途中で亡くなったりしているわけですが、この中原さんに大変良くしていただいた、そのことに対する感謝の気持ちを述べられたことがとても印象的でした。
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